ヒロ内藤Hiro Naito Profile
当アメリカンバスショップの良きアドバイザーであり、日本のバスフィッシング界において開拓者として誰もが認める、ヒロ内藤。彼のプロフィールを辿りながら、アメリカンルアーの素晴らしさを感じて欲しい。
バスとの出会い
昭和30年6月25日、群馬県生まれ 子供の頃は整形外科医の指導で運動を制限されたため、遊び盛りの内藤少年の気分転換のために両親やおじさんと船に乗ってフナ釣りに行ったのが魚族とのファーストコンタクトであったらしい。
その頃、雑誌で目にしたカナダのキングサーモンフィッシングに幼いながらも衝撃を受け、海外釣行を夢見たというから栴檀は双葉より芳しである。
フナ釣りから始まった内藤氏の釣り歴は、元気になった中学生の頃から地元の管理釣り場でのスプーンでのニジマス釣り、つまりルアーフィッシングへと発展していった。
ところが、フライの方が数が釣れるということからフライフィッシングにものめり込み三桁は軽く超えるまで釣果を伸ばしていった。内藤氏のやるならとことん頂点を目指すというアングラーとしてのスピリッツが、この頃から早くも芽生えていたのかもしれない。
このようにしてフレッシュウォーターを中心にトラウトから本格的に釣りを覚えていった。しかし、まだこの時点で内藤少年とブラックバスとの遭遇はまだない。
やがて高校に進学した内藤氏は、相模湖にブラックバスという魚がいることを知り、相模湖へ和竿とルアーロッドを持って遠征。
そこで米軍の兵士たちが岸ぎりぎりにキャストしたザラスプークにバスが水面を割ってヒットするのを目撃したのがブラックバスとの記念すべき最初の対面となったと聞く。
このバスとの衝撃的な出会いが内藤氏をバスにのめり込ませていくことになるのである。 高校2年の時に相模湖で、ヘドンタイガーをトウィッチ様のリーリング中にバスをゲット。
これが内藤氏の初バスであり、内藤氏の輝かしいバスフィッシング歴がここに始まったのである。航空工学を専攻した九州の大学時代は、学業の傍ら鹿児島県を中心にバスフィッシングに通いつめ、内藤 裕文がアングラーとしての基礎を築いた時代であったといえる。
ジム・バグリーとの出会い
大学卒業後1978年に渡米し、フロリダ工科大学へ留学、その後南アラバマ大学に移り、コンピュータサイエンス、マーケティング、マネージメントを学ぶ。
このバスフィッシングの聖地ともいえるフロリダとアラバマそしてジョージア時代に本場アメリカのバスフィッシングの真髄に深く触れ、バスを含めたゲームフィッシングの経験と知識と釣り人としての見識に更なる磨きをかけたと思われる。 故西山徹氏が1982年に行なったアメリカ取材のコーディネーターを務めたことからフロリダ ウィンターヘヴンにあったBagley Bait Companyの創始者であるJim Bagley氏と運命的ともいえる出会いをすることになる。
内藤氏は当時、大学卒業を前に釣りを趣味として続けるか、仕事にするべきかの岐路に立っていた。
南アラバマ大学を卒業すれば、カリフォルニアのコンピュータ会社に就職が決まっていたからであるが、結果として内藤氏は一枚の卒業証書を手にするよりも釣りを職業にする道を選んだのである。
こうして「ヒロ内藤」が誕生した。
仕事として、釣りと関わっていくと決めた以上、世界最高峰の釣りの舞台であるB.A.S.S. Master Classicへプレスアングラーとして参加することが当面の夢であったが、直ぐにその夢が叶うことになる。バスプロ最高峰のトーナメントである B.A.S.S.Master Classicからプレスアングラーとしての待ちに待った招待状が内藤氏に届いていたのである。 当時、全米ジャーナリスト協会のトップ100にランクインされなければ、プレスアングラーとして招待されないと言われたほどの名誉であった。 ヒロ 内藤は、南アラバマ大学の卒業3か月前にBagleyに面接を申し込んだ。
その時、Bableyは内藤氏の履歴書を見て驚いたという逸話は色んなところで書かれているので有名である。
内藤氏の航空工学、コンピュータサイエンス、マーケティング等々を学んできた学歴をみて、お前はいったい何になりたいんだと聞いたBagleyに対し内藤氏は、自分が興味があるものは全て学んだが、この全てがこれからの仕事に役に立つはずで、何一つ無駄にはならないと答えたという。 これ以降、Bagleyは、ヒロがうちの息子だったらというのが口癖になったという。
内藤氏のフィッシャーマンとしての驚くべき知識と情熱さらには物事に対する 探究心と誠実さにほれたJim Bagleyは、1983年南アラバマ大学卒業の3か月前に海外市場の責任者として内藤氏を迎え入れた。 一外国人に対してある意味社運を賭けたJim Bagleyの選択は間違いではなかった。
内藤氏もすごいがJim Bagleyという人は経営者としても人としても尊敬に値する人物である。 とりあえず、卒業しときなさいなどと中途半端なことは言わなかったのである。
日本初のプレスアングラーとして
Bagley Bait Companyに入社した1983年のB.A.S.S. Master Classicに日本で最初のプレスアングラーとして参加した。
その後17回にわたりB.A.S.S.のプレスアングラーあるいはアウトドアライターとして活躍し、日本にアメリカのプロサーキットシーンだけではなく本場アメリカのルアーフィッシングの醍醐味やその技術の数々を伝えてきた。様々なアメリカのトーナメントで活躍する多くの一流のバスプロと親交があり彼らとの釣行が内藤氏のルアーフィッシング観を更に押し上げることになったのは想像に難くない。
パターンフィッシングやストラクチャーフィッシング、システマチックフィッシングの概念を日本に最初に紹介した功績は計り知れず、日本の多くのバスプロ達もその恩恵を受けているはずである。
釣りを仕事と決めた以上、ヒロ内藤は現在に至るまでの29年間、釣りをする日も、しない日も毎日釣りのことを考えている。
ヒロ内藤は、力の続く限り釣りの道を極めたいと切に思ったのである。 Bagleyに入社後のヒロ 内藤は、一時期湖から歩いて200歩にあるところのアパートに住んでいたことがあった。
当時、Bagley社は3交代制でルアーの製作を行っていた。 いわゆる、「マスプロダクション・ハンドメイド」という人手を多く必要とする手法で熟練の技術者がルアーの生産を日夜分かたず進めていた。
Jim Bagleyの希望で、ヒロ内藤は朝の7時から昼の3時までのシフトで勤務していた。 ヒロ内藤を自分の手元に置いておきたかったのに違いない。シーズンにもよるが、フロリダは夜の9時、10時までまだ明るい。家がフィールドに近いことは、ヒロ 内藤にとって、そして釣りを仕事としている身にとっても好都合だった。ルアー性能の検証やルアー開発のヒントを得るために毎日のように、ヒロ内藤はフィールドに立ち、キャスティングを繰り返した。それゆえ、年間釣行日数は軽く200日を超えていたという。 36時間ぶっ続けで食事もとらずボート上で釣りをし、最後には気を失ったというエピソードを聞いたことがある。
まさしく、釣り漬けの日々であった。
シルバースレッドの誕生
また、1991年にBagley社のルアー部門がBilly Stewart Jr.に買収されるまでの約9年間内藤氏はJim BagleyとともにFat Cat Crankbait等のルアー開発に携わる一方、コポリマー・モノフィラメントライン Bagley's Silver Thread BlueLabelの開発にも深く関わり、1985年アメリカにコポリマー フィッシングラインを初めて紹介した日本人として業界にその名が知れ渡ることになる。
このSilver Thread開発にも逸話があるので、少々長いが付け加えておくことにする。 当時、アメリカのフィッシングラインのシェアは、大手バークリー社とデュポン社の独壇場であった。
シェアからすると、この2社で80%を超えていたという。ある日、内藤氏が持っていた日本製のラインを見たJim Bagleyは、自社でライン開発をやると言い出したのである。内藤氏は、ラインに手を出すと社の命取りになるのでやめた方がいいと主張し譲らなかったが、Bagleyはライン販売を諦めようとしなかった。普段は温厚なJim Bagleyもこの時は、子供の様に怒ったという。Bagley社にはセールスグループが6つあり、全米に100人ほどの契約セールスマンがいたが、皆同じようにラインに手を出すことには反対であった。
ラインメーカーのビッグ2のマーケティング能力、すなわち宣伝広告費用、言い換えれば投資額によって販売のシェアが決まってしまうという市場原理を覆すことは不可能にみえたからである。内藤氏はBagleyに3度、念を押したが、Bagleyの意志は変わらなかった。そこで内藤氏は腹をくくり、 Bagley社がビッグ2に勝てる方法を考えたのである。内藤氏は、その時のことをたとえ話でこう説明をする。 犬の喧嘩では、体が大きいほうが有利に決まっているが、体格的に劣る犬が勝てる唯一の方法は、咬みつく場所を選ぶことだ。 これがBagley社がビッグ2に唯一勝てる方法だったと。なにか、戦国時代の武将の話を聞いているようである。内藤氏は、咬みつく場所、すなわち攻める場所を懸命に探った。そして、唯一勝てる方法、それはユーザーに訴えかけるキーワードだと内藤氏は結論付けたのである。そのキーワードは共重合体すなわちコポリマーであった。
コポリマーだから、ラインを細くすることが出来る。コポリマーだからラインを軟らかくすることができる。コポリマーだから強いラインが出来る。
このキーワードを基に、内藤氏を中心にラインの開発を急いだ。1985年、内藤氏入社2年目にJim Bagley悲願のBagley's Silver Thread Blue Labelが完成し、市場にその出来を問うたのである。
結果は、多くの人が知っての通り初年度から全米でSilver Threadの人気がうなぎ上りに上がり、最初にバークレー社をあわてさせた。
バークレー社が、Silver Thread発売からわずか3か月でトライポリマーライントライマクスの販売に踏み切ったのをみても、いかにSilver Threadの市場におけるインパクトが大きかったかが想像できる。
最初は、高をくくっていたデュポン社も、日本からラインを輸入し販売せざるを得ない状況になったという。それほど、内藤氏の打った手はアメリカのライン業界に激震を起こし、これ以降ライン業界の競争が激化したと言われる。 それまで、アメリカのライン業界は製品性能に拘ることをあまりせず、ある意味平穏であったが、内藤氏の投じた業界への一石は大きな波紋となりライン業界自体の体質も、製品の性能や完成度を追求するように変わっていった。
内藤氏の功績を上げればきりがないが、このライン業界の体質改善に与えた影響と効果は計り知れない。全米のライン業界、あるいは釣り業界に内藤氏の名が知れ渡るに至った一つのエピソードである。
ジム・バグリーとの別れ
その後Jim Bagleyは、不幸にも心臓発作で体調を壊し、入院しビジネスからの引退を余儀なくされ、1991年Bagley社のルアー部門を前述のBilly Stewart Jr.に売却することになったが、Silver Threadだけは最後まで手放そうとしなかった。
Bill Stewart Jr.は、内藤氏に一緒にBagley を手伝ってくれるに頼んだが内藤氏は首を縦には振らなかった。 Jim Bagleyが衰えたとは言え、Jim Bagleyから給料をもらっている身である以上、Jim Bagleyを見はなすわけにはいかなかったのである。
内藤氏とは、このように情に厚く道理と筋を大切にする人である。Jim Bagleyの手を離れたStewartのBagley社は、売上が急速に落ちていった。困ったStewart は、内藤氏にBagley社を手伝ってくれるよう再度頼んだ。
見かねた内藤氏は、自分が決めることではないので、Jim Bagleyと相談してくれと言ったそうである。Jim Bagleyは自分が作り上げたBagley社が傾いていく姿を見るに忍びなかったのであろう、Stewartを外から支援するように内藤氏に言った。 内藤氏はSilver ThreadのみとなったJim BagleyのもとでSetwartのBagley社をサポートした。
Jim Bagley と内藤のコンビは約9年に及んでいたが、ついにJim Bagleyの健康問題が悪化しこれ以上ビジネスを続けることは難しかしい状態になってきていた。その頃、ラインビジネスに乗り出そうと考えていたPRADCO Fishingは、Silver Threadに興味をもち、Jim BagleyにSilver Threadの譲り受けを申し出た。
PRADCO Fishingは、ヒロがついて来てくれるならSilver Threadを吸収合併したいとのことだった。内藤氏は、Stewartの時と同じように、自分の判断では決められないので、Jim Bagleyに聞いてくれと答えたと言う。ヒロ 内藤はどこまでも筋を通す人である。PRADCO Fishingの社長と重役連はすぐにJim Bagleyと連絡を取り、Jim BagleyはSilver ThreadをPRADCO Fishingに売却することを決めた。売却を決意したJIm Bagleyは内藤氏に、ヒロはSilver Threadを世界一にしてくれと言ったそうである。 こうして、内藤氏はSilver Threadと共にPRADCO Fishingへ移籍したのである。 ヒロ 内藤の人となりを紹介したくて当時の経緯を少し詳しく説明した。
王者PRADCOへ
話が長くなったので、話を元へ戻そう。 アメリカでは、内藤氏のことをエンジニアであり科学者であり研究者であると共にB.A.S.S.のプレスアングラーでありアウトドアライターでありプロフィッシャーマンとして数々のTV番組や書籍やDVDをプロデュースし講演会のスピーカーとしても活躍しているとその多才ぶりが紹介しされている。 一人の人間がこれほどまでに多岐に渡って一流であることに驚きを禁じ得ない。
1991年 前述のようにJim BagleyがBagley社を手放した後、内藤氏は業界最大手のPRADCO Fishingに環太平洋地域の統括責任者およびPRADCO日本の代表者として迎えられた。
所謂、釣り業界ではエリートコースと言える内藤氏の転身ぶりは、ただ内藤氏の実力である所以であることは間違いないが、アメリカの経営者の人材を見る目の確かさと実力主義を垣間見る気がする。このPRADCOの判断も間違いはなかったのである。
Jim Bagley同様、市場に関する洞察力と見識について内藤氏の右に出る者はいないと判断したに違いない。 内藤氏の見識に感銘するのは、技術の開発や紹介に留まらず、釣りを通して人生をどう生きるかあるいは人として、家庭人として、社会人として日常的な困難や諸問題に如何に立ち向かうかということを我々に常に投げかけ、釣りを単なる趣味や遊びからより昇華した世界観まで高められたところにある。
内藤氏を紹介したアメリカの記事に「彼を知っている誰もが人として、釣り人として、スポーツを愛する人として彼を尊敬している」というものがあるが、内藤氏を語る時、彼を知る人はアングラーとして、タックル開発者として、アウトドアライターとして、映像プロデューサーとして、ビジネスマンとしての実績だけでは表せない、人としての魅力や世界観や洞察力を抜きに語ることはできないのである。 従って、内藤氏をこよなく愛す人達だけでなく一度内藤氏と話せば釣り人でなくてもつい話し込み、彼の世界観に引き込まれたちまち彼のファンになってしまう。
ヒロ内藤のバックボーン
内藤氏の人としての暖かさや厚みが一体どこから来ているのかを考える時、彼を育んだ家族に思いを馳せる。
内藤氏の幼少期は、東大病院への通院に明け暮れた時期があったと聞くが、そんな中で家族の愛にしっかりと支えられたことが彼のバックボーンになっているのだろうか。
腰から下をギブスで固定した内藤少年を両親が背負い、実姉が重い荷物をかかえて遠路東京の病院に通っていたのである。 そんな時期に遊びまわりたい盛りの内藤少年の気を紛らわすために、動きまわらなくてもいい船釣りを母親が教えたという。
ヒロ内藤が道理や筋を大切にする人であることは前にも書いたが、ご両親の筋の通った子供たちへの接し方や育て方が内藤氏に脈々と受け継がれているような気がしてならない。
この家族にとっても大変な時期に、内藤氏は天職とも言える釣りと出会い、弟思いの実姉は医師になる決心をしたと子育てに関してのインタビューでご両親が語っている。
実姉は医学部を卒業された後、1985年にJAXAの搭乗科学技術者に選ばれ1994年スペースシャトル コロンビアで日本女性初の宇宙飛行士として金魚での宇宙酔いの実験などに参加し、1998年にはディスカバリー号に乗り込み生命科学や宇宙医学の分野の実験に携わったことは皆の知るところである。 内藤氏も1992年ケネディー宇宙センターから打ち上げられたスペースシャトル エデンバー号での錦鯉を使った宇宙酔いの実験のバックアップメンバーの一員として参加した。
実験用の錦鯉の飼育や狭い実験環境に適応する魚の確保など、様々な問題を抱えていた実験スタッフが魚に詳しい内藤氏にアドバイスをもとめたのである。ケネディー宇宙センターで鯉が死亡した場合や不測の事態に対処するためには、遠く日本からの対応では現実的でなかったため、内藤氏の助言により、急遽ケネディー宇宙センターから1時間半の距離にある内藤氏の自宅にあった馬小屋を改造し150匹もの錦鯉を飼育し、実験個体の飼育や交換等に協力した。 内藤氏の活躍は、宇宙酔いの実験グループから感謝さたことは言うまでもない。
このエピソードは、内藤氏の学問の出発点であった航空工学や魚類への広範な知識が生かされた場面であったに違いない。
この時の飼育実験から、内藤氏は魚類の環境適応性や個体による性格の違いに関する見地を得たという。内藤氏の多才な活動の一つに、セミナーでの講師という側面がある。
釣りの技術的な話は科学者らしく論理的で聞く者に多くの教訓や示唆を与えるものばかりであるが、その技術的な話しの中に一見釣りとは直接関係ないと思われる話題に言及されることがしばしばある。
釣りという範疇では到底収まりきれない内藤氏の伝えたい想いが、そこにはあるに違いない。とても含蓄のある話が多い。
釣り場の環境を次世代へ受け継いでいくために、内藤氏はごみを捨てるなという直接的な呼びかけは今はもうしていない。ルールに縛られることなく、ごみを拾うという感覚と意識を一人一人が持とうと我々に訴えかけてくる。 釣り人ひとりひとりが、如何に社会の構成員として物事を捉え、考え、実行していくことが大切かを投げかけてくる。
それは、大切な命を対象にした釣りという行為を通して、生き物や自然や人々の生活や教育や社会そして地球を一人一人が責任をもって見て欲しいと訴えているように聞こえるのは、私だけであろうか。 マナーはなにも釣り人だけのものではなく、釣り人である前に、一人の人間として考えたり行動することが大切だということを再認識させられるのである。
プロフェッショナルフィッシャーマン
内藤氏は、自身の経験と知識を基にルアーだけでなく、ロッドの開発も手掛けてきた。 OFTのHiro Naito Special,Hiroism,Air seriesなどの名作を世に送り出している。
これらのロッドは、単なるシグネーチャーシリーズものではなく、内藤氏の経験と科学者としての知識や物作りへのこだわりが凝縮されており、本場アメリカでもファンは多い。
先日も、アメリカのプロトーナメント団体の双璧の一翼を担うFLWのBFLトーナメントのウィニングロッドとして6'2'OFT Hiro Naito Special-Slow Jerkerが紹介されていたが、内藤氏のロッドの実力を表す証左であろう。
IGFA(国際ゲームフィッシング協会)では、10LB BASS CLUBでトロフィーフィッシュを記録してているが、そこに内藤氏がLake Mcleodで釣り上げた11lb 2ozが記録に残っているが、それ以前に釣り上げた12lb 8ozが内藤氏のベストであることを、内藤氏自身は気にしないと思うが付け加えておく。
数々の、10lb ,11lbオーバークラスのバスを釣っている内藤氏は無類のビッグフィッシュゲッターであることはご承知の通りであるが、単なるビッグフィッシュ狙いではなく、釣行時の魚やバスに話かける愛情のこもった言葉を聞いていると、魚と釣りを心から愛し楽しんでいるところが内藤氏をよく物語っているように思う。
ちなみに、その他では、ターポン 70lb, スヌーク 22lb , シートラウト 11lb,レッドフィッシュ 17lb, GT 30lb という自己記録があるが、ブラック バス世界一を釣り上げるという夢は捨てていない。
内藤氏の好きな釣りは、ルアー、フライによるフレッシュウォーター、ソルトウォーターの全てのゲームフィッシングであるが、そのどれにもに精通し、世界中のフィールドを今なお駆け回っているプロフェッショナル フィッシャーマンそれがヒロ内藤である。
とても内藤氏の全てを私ごときが紹介することは不可能であるが、最後に内藤氏の最初の著書であるBass Pro's SUPER BASSINGから内藤氏の言葉を引用して私の敬愛するヒロ内藤氏の紹介を終える。 「人間としての魅力がなければ一流のプロにはなれない。私とバスプロ達との出会いも、今年ではや5年になるが、一度もいやな思いをしたことがないという事実が、一流のバスプロの人間としての素晴らしさを証明していると思う。」
AMERICAN BASS SHOP Inc.
代表 保坂 尚紀
釣り本来の技術的な話、正しい知識にあふれている
私は今、ヒロ内藤さんが25年以上前に書かれた本を読み返したところだ。
さすがに25年の間に、科学は進歩しボートフィッシングのエレクトロニクス関係は当時と比較して今の方が随分便利になったことが分かる。
しかしながらである、ストラクチャーフィッシングやパターンフィッシング、そしてパターンの絞り込み等々の釣り本来の技術的な話は、今読んでも古いものなど一つもなく、むしろ為になるのである。
ヒロ内藤ルアーフィッシングのエッセンスイメージ画像1我々が目にする釣りの解説書や釣り雑誌の記事は、残念ながらローカルなフィールドでしか通用しないものがあったり、特定の条件にしか効かないものも多く、その類の情報や知識は何時の間にか目や耳にしなくなるものも意外と多い。
流行り廃りの多い中で、対象魚や自然を含めたフィールドを分析するきちんとした知識が如何に大切かということを改めて思い出した。
そして、ルアーやタックルに込められた性能をしっかりと知った上で使って初めて、ルアーが持つ本来の能力が引き出せるという至極当たり前の事実を 我々アングラーは忘れがちで、ついつい功を焦るばかりに流行りのテクに踊らされ何時まで経っても本物の釣りの感動や充実感を存分に楽しんで来れなかった自分を反省した。
誰がどんなに巻いても釣れるのであれば、何も自分で巻くことはない。釣れること自体が目的なら、いっその事、餌釣りや網釣りの方がもっと効率がいいかも知れない。
そもそもルアーフィッシングとは、魚を騙して遊ぶ、魚と釣り人との一騎打ち。
魚に遊んでもらってはいるが、魚に感謝しながらのエキサイティングな真剣勝負のゲームだったことを思い出した。
何故そのルアーが効いたのか、あるいは、そのルアーの何に対して魚が反応したのか、それを想像して、次の自分のアプローチに生かさなければ、次に来るかもしれない、たまたまの偶然を待つしかない。
偶然を待つゲームには、夢中になれそうもないし、そもそも、それ自体がゲームと言えるだろうか。
釣りのルールやマナーをきちんと守れば、釣りは十人十色、各々が好きなように楽しめばよいはずだ。
遊びに難しい話は無用で、ややこしいことは御免である。
どの様に釣れようが一匹は一匹、俺の魚には間違いない。
ヒロ内藤ルアーフィッシングのエッセンスイメージ画像2 が、しかしである、偶然釣れた魚と自分の力で釣った魚の違いを感じてこそ初めてゲームフィッシングの楽しさや喜びの世界に入って行けたと言えない だろうか。
私は自分の釣りを自戒しながら、ハラハラ、ドキドキのバスフィッシングを夢見ているのである。
そんなエキサイティングなルアーフィッシングを皆で体感するために、ヒロ内藤さんのルアーやゲームフィッシングのエッセンスをこのコーナーで披露していきます。
私も、一から勉強し直し、バスフィッシングの醍醐味を味わいたいと思います。
2011年春版 この時期とっておき5ルアーテクニック
水温の上がり始める頃になるとどうしてもバス釣りに行きたい熱が高くなるので、自然とこの時期のアプローチの話をしてしまうことが多い。
もちろん、バスという魚の習性を理解して、そこからアプローチを考えることは大事なことではあるのだが、今年は少し趣向を変えて、僕がよく使い回しをする5つのルアーのタイプとその使い方を紹介してみたいと思う。
1. 何といってもこの時期は8番ブレードスピナーベイトのスローリトリーブ
何といってもこの時期(一般的に日本では5月末くらいまで)は極端に大きなブレードを付けたスピナーベイトは絶対的に強いと思う。
早い時期ならばシングル・ブレードのスピナーベイトで、コンタクト・ポイントに集まるランカーやミッド・レンジでのカバー周りで落とし込みのテクニックを駆使していくと面白いのだが、基本はやはりタンデム・ブレードになるだろう。ただし、トレーリング・ブレード(後ろ側のブレード)は7番もしくは8番のウイローリーフ・タイプを使用することを強くお勧めする、僕の場合は、1m前後のシャローが主体で風がなければ、ボーマー社の1/2オンスのブッシュワッカーに8番ブレードを付ける ただし風が出てくると、ボトムを確実にトレースすることが大事になってくるので7番ブレードまで下げてしまう。風があるときにはエクスキャリバーの9/16オンスのタンデム・ブレードのトレーリング・ブレードに8番ブレードを使っている。
春先のスピナーベイトでは複雑なりトリーブ・テクニックを必要としないし。確実にボトムをとり、ボトム・クロールと言われるようなスローなステディー・リトリーブを主体にするとよいだろう‥
2. 水温が上がりきらないときは、ミノーのショート・トゥイッチ&キックバック
水温が上がりきらないときのアプローチとしてはミノーが強い。
もしも水深1m前後くらいのシャローを狙うのであれば、僕がVol.1のビテオの中でやっていたような、極端に短めのショート・トウィッチの後でキックバックに入れ、表層でストライクに持ち込むような方法が有効な方法の1つだ。
シャローと低水温という2つのキー・ポイントが重なるときには是非試したい方法だ。ルアーは何と言ってもARB1200番、つまりスミスウィックのラトリンク・ログの出番が圧倒的に多い。
3. 水深が1.5~2mならリップの大きいADRB1200の出番。
もし<2>で話したキー・ポイントが低めの水温と狙う水深が15から2mくらいになると、同じラトリング・ログでもADRBの1200番台が使いやすい。ARBとADRBの2タイプはボディーサイズが全く同じなので間違いやすいのだが、よく見るとリップの大きさが少し違う。もちろんADRBのほうがリップが大きいので余分に潜る。ジャーキングをしている場合などでもよほど透明度がよくなければ目で確認が出来ないほど潜ってしまう。
この時期にADRBを使うのであれば、ロッド・ストロークのスピードをスロー気味にしたジャーキングが有効だ。特にルアーを止めてしまう、ポーズの段階での間合いは長めに取り、何回かに1回は2秒から3秒くらい待つつもりでもよい。時にはラインが様に走り出すような、手元でアタリを全く感じ取れないような場合もあるので、ラインの動きにも注意をしておこう。ポーズの間合いが長いために、第一フックの前後に鉛の板を少し貼ってしまい、浮力を少し押さえ気味にしておくとより効果的だ。
4. 1.5mより深場を狙うのであればレーベル社のD22Sがおもしろい。
コンタクト・ポイントに集まるランカーを始めとして、1.5mよりも深い側に狙いを絞っていくのであれば、レーベル社のD22S(サスペンディング・ラトリング・スプーンビル・ミノー)がおもしろいと思う。キャスト後にリーリングでルアーをボトムまで沈め、そこからはロッド・ワークでルアーを動かし、リーリングでスラックを巻き取るようにすると良い。スイーピンクといわれるような、ロッド・ワークでのストロークは長めでも、スピードを遅くした物が有効だ。!特にリップがボトムやカバーにぶつかるときには、そこでの一瞬の引っかかりを逆に利用して段を付けてしまうとよい。
5. 水深3mくらいまでを効率よく攻められるゲイ・ブレード。
アフター・スポーニングに多いサスペンディングのバスも含め、水深3mくらいまでを効率的に攻めていくならば、コーデール社のゲイ・ブレードは非常に使いやすいと思う。ブレード・ルアーと呼ばれるこの種のルアーでは、ヘドン社のソナーも非常に有名なのだが、カバー周りでの根ガカリ率やリフト・アンド・カーブなどでの細かい動きはゲイ・ブレードにかなう動きのルアーはないだろう。
この時期の基本的な使い方は、テキサス・リグのワームと似ていると思っていただければよいと思う。
ボトムからルアーを引き離すリフトは、どちらかというと2f受くらいに段を付けたショート・ホップがよく、そこからはラインにテンションをかけたままでルアーがボトムやカバーにぶつかるのを待つ。基本的なストライクは、コツっとロッド・ブランクを鉛筆で叩いたような感じがするので、すかさずアワセるとよい。僕が好きでよく使うのは3/8オンスのサイズで、透明度の良い場所ではクローム地にブラックやブルーのカラーパターンを使うことが多い。逆に透明度があまり高くないのであれば、白系のスモーキージョーやチャートリュースを使う。
春から初夏にかけての戦術とルアーチューニング
毎年のことだが表水温が摂氏12度を越え始めると、ランカーバス狙いの血が騒ぎ出す。 産卵のための接岸だが、まだ巨大バスの姿もないにもかかわらずシャローヘと目が向いてしまう。もっとも、まれに気の早いバスがシャローヘと姿を現すからよけいかも知れないが。そして、水温が14度を超える頃の満月周りになると目を見張るような巨大バスがシャローヘ向かって動き出す。バスマンであれば一度は触ってみたいサイズのバスだ。
この時期になると僕は毎年恒例のように巨大ブレードをつけたスピナーベイトを勧めてしまう。ランカーを触ってみたいアングラーにとっては外すことの出来ないルアーだと思うので、今回も文末で簡単に紹介してみたいのだが、まずはプラグによるアプローチを紹介してみたい。
A.C.プラグ ここ数年、日本でもランカーバスヘの有効なアプローチのひとつとしてスイムベイトが使われることが多くなった。元々カリフォルニア州の一部のランカー・ハンター達がやっていたことが全米へと、そして全世界へと広がっていったのだ。興味深いことにこの発端を作り出したのがアボガスト社へ販売を依頼していたA.C.プラグというジョイントの、ハードとソフトの両方を組み込んだルアーであった。その後、A.C.プラグはアボガスト社を離れ、独自の路線を走ることになる。
ランカーバスとしても有名なテキサス州のレイク・フォークなどでは、ソルトウォーター用の6インチから8インチサイズのダイビングルアーをランカーバス用のスイムベイトとして使っていたガイド達も多かった。もう15年くらい前の話なのだが、当時の僕には信じがたい光景であったと同時に、ランカーバスヘのアプローチに関して深く考え直させられた部分も多かった。今回は僕が学んだことをミノーやクランクベイトに応用したことを紹介してみたい。
ミノーでランカーを狙うための浮力のチュー二ング
ミノーでジャーキングをやっていると、めちゃくちゃ小さいサイズのバスからランカーまで幅広いサイズのバスを引きつけてしまう。しかしこの時期は、浮き上がりの早いルアーにはなかなかランカーバスは反応しないことが多い。キルをかけた時には最低でも1秒くらいはしっかりと止まっていてくれたほうがよい。その上、この時期にランカーに狙いを絞ると、ルアーを通してくるゾーンが夏や秋よりも30cmから50cmくらいは深くしておいたほうが効果的だ。
実はログの中にはADRB1200という、ARB1200と全く同じボディーを使いながらもリップの大きさが遣うタイプが存在する。僕自身も正直なところ、1年間を通しての使用頻度を考えると圧倒的にARB1200のほうが多いのだが、この時期にビッグサイズを狙う時のルアー選択はADRB1200となる。もっとも、最近ではカタログ落ちしてしまい、あまり見かけることもなくなったが、2000年まではログの中にASDRC1200という5インチ半の、ウエイトが14gというランカー狙いに非常に有効なルアーがあった。もしも見かけることがあれば、一度試されるとよいだろう。
春にミノーでランカーを狙う場合のキーポイントは浮力の設定だ。これはバスが産卵に向かう段階での食性以外の要素を考えなければならないからだ。浮力が強すぎると思われる場合にはリップと第一フックとの間に鉛の板を両面テープで貼り付けていくとよい。このチューニングを行う上で大事なことはルアーの比重が18を越えないこと。つまり、浮き上がりが極端に遅くても、フローティングにしておかないと使いづらくなるので注意してほしい。この種のチューニングはバスプロ達の間でもかなり頻繁に行われている。
さて、僕はいつも“テクニックでバスをルアーに1m近づけるよりも、ルアーをバスに1m近づけるほうが圧倒的にやさしいし、ストライク率も上げやすい”と話している。これはもちろん、この時期のランカーバスとて同じだ。だからこそ上記のようにルアーの潜行深度が若干深めなものがよかったわけだ。
ところが産卵エリアに出てくる前のランカーを狙う場合には、コンタクト・ポイントとよばれるエリアを攻めるべし、とバス釣りの教科書にはよく紹介されている。確かに鉄則ともいえることだ。このコンタクト・ポイントというものは水深2mから3mくらいの場所にある障害物がなりやすく、ランカーバスはここで産卵のための条件が整うのを待っている。このバスに狙いを定める場合には、上記の方法では非常に弱い。そこで出てくるのが次の方法だ。
コンタクトポイントを攻めるためのダイビング・ミノーのチューニング。
コンタクト・ポイントを狙うためのダイビングミノーとして一般的にもっとも有名なダイビングミノーはレーベル社のサスペンディングのスプーンビルミノーだ。現在では一番定評もある。浮力の問題にしてももっともうなずけるのだが、特殊なバランス設定で僕の興味を引きつけていたのは1990年くらいまで作られていたスミスウィック社のディープ・サスペンディング・ログ(SSRB1200)だ。このルアーは現在のASSRB1200とボディーサイズやウエイトは一緒なのだが、バランス設定が異なっている。昔のタイプはリップの下に大きなボールが取り付けられているのが大きな特徴で、サスペンディングといわれながらもスロー・ライザーと呼ばれるフローティング設定になっていた。水に浮かべると頭を大きく下に向け、ボディーは水面に対して80度くらいの角度でボトムを指してしまう。
このような設定をしておくことの良さは、例えば水深2mなり3mまで潜らせた後にキルをかけてもボディーがその姿勢を保ってくれるので、ロッドワークによる小技が入れやすいのだ。特にプリスポーニングのように食性以外の要素を考えなければならない場合には非常に強いバランス設定なのだ。それでは何故このバランス設定が残らなかったのかというと、実はこのままだとリトリーブの設定幅が非常に狭くなるので通常のダイビングタイプのつもりで使ってしまうとバランスを崩しやすかったからだ。
非常に有効だといっても、世の中にもう存在しないルアーの話では役に立たない。そこで僕がよくやるチューニングのひとつを紹介しよう。単にダイビングのミノーを結ぶときにラインにワームシンカーを入れておき、これをシンカー止めで固定しておくだけだ。ただし、プレットウエイトの後ろ側のへこみはトウィッチをかけた時などに水流の乱れを起こしやすいので、個人的にはナツメ型の方が好きだ。特にプレットウエイトを使う場合にはスイベルを使いウエイトのエッジがリップの面にぷつからないようにしておかないとアクションがきれいに出ないこともある。基本はテールで浮き、深い前傾姿勢がとれるウエイトを選ぶこと。
実際に使う場合には、まず自分でウエイトを加えたルアーのニュートラル・リトリーブを見つけだす。例えば、ボーマ一社の24Aという4インチのダイビングタイプを使いたい場合には1/16オンスのシンカーをラインに通してやるとだいたいボディーの中心線が水面に対して75度くらいまで下がってくる。これをこのまま通常の引き方で引いてしまうと水深3mくらいまで行く。それでは意味がなく、徐々にリーリングのスピードを下げていき、水深1mゾーンと水深2mゾーンをルアーが通ってくるスピードを透明度のよい場所で探し出しておく。
当然ながら引くスピードが遅いためにルアー自体はバスを誘うような動きはしていない。ここで大事なことはルアーの動きそのものよりも、狙っているゾーンを通せるかどうかなのだ。ルアーの動きそのものは、ロッドワークで小刻みなトウィッチをかけてやればいくらでもバスを誘える。なるべく小刻みなロッドワークにしたほうがスポーニング時のランカーには効く。この方法を用いて、6インチ前後の大きなソルトウオーター用のダイビングミノーを使うと池原などのランカーバスにも非常に有効だと思うが、フックを代えないとフッキング率が下がる。また、この方法はダイビングタイプのミノーだけではなく、クランクベイトでも有効なので是非試して欲しい。
やっぱり外せない巨大ブレードのスピナーベイト。
度々テクニックだが、外すわけにはいかない。この時期(一般的に日本では5月末くらいまで)は極端に大きなブレードを付けたスピナーベイトは絶対的に強いと思う。早い時期ならばシングル・ブレードのスピナーベイトで、コンタクト・ポイントに集まるランカーやミッド・レンジでのカバー周りで落とし込みのテクニックを駆使していくと面白いのだが、基本はやはりタンデム・ブレードだ。ただし、トレーリング・ブレード(後ろ側のブレード)は7番もしくは8番のウイローリーフ・タイプを使用することを強くお勧めする。
水深1m前後のシャローが主体で風がなければ、ボーマ一社の1/2オンスのブッシュワッカーに8番ブレードを付ける。ただし風が出てくると、ボトムを確実にトレースすることが大事になってくるので7番プレードまで下げてしまう。風があるときにはエクスキャリバーの9/16オンスのタンデム・ブレードのトレーリング・ブレードに8番ブレードを使っている。
春先のスピナーベイトでは複雑なリトリーブ・テクニックを必要としない。確実にボトムをとり、ボトム・クロールといわれるようなスローなステディー・リトリーブを主体にするとよい。
ルアーでバスを狙うときに考えることは、どの位置に付いているバスを何の要素を駆使してストライクに結びつけるかということだ。漠然にルアーを投げるのではなく、自分で狙おうとしているバスの状態を想像しながら、狙うポイント、使うルアー、そのルアーの動かし方、ルアーのカラー等々を決めていくのだ。ルアーを使い切るということを是非考えて欲しい。釣りの世界がもっともっと広がるだろう。